神栖市議会 2023-03-07 03月07日-04号
世界が温暖化の影響で災害に苦しみ、食料難やけがに苦しんでいるとき、戦争を続けるロシアを糾弾し、直ちにロシアはウクライナから撤退するよう強く抗議するものです。同時に、これに乗じて軍備拡大や軍事産業増強をやめ、平和の準備です。特に日本は平和憲法に定められたように、外交努力を中心に平和外交を進めるべきです。 戦争は国家権力が殺人を許可するようなものです。政府に強く要求することです。
世界が温暖化の影響で災害に苦しみ、食料難やけがに苦しんでいるとき、戦争を続けるロシアを糾弾し、直ちにロシアはウクライナから撤退するよう強く抗議するものです。同時に、これに乗じて軍備拡大や軍事産業増強をやめ、平和の準備です。特に日本は平和憲法に定められたように、外交努力を中心に平和外交を進めるべきです。 戦争は国家権力が殺人を許可するようなものです。政府に強く要求することです。
パンデミックに伴う食料難に備えた食料確保策につきましては、国内全体にかかわる大きな問題であると捉えておりますので、今後の国の動向を注視しながら、県や近隣自治体と情報を共有し、連携してまいります。 以上でございます。 ○飛田静幸議長 村民生活部長。 ◎佐藤秀昭村民生活部長 次に、環境政策についてお答えいたします。
食料難時代に開墾した谷津田と申しますか、そういうところの長放棄的な判断と申しますか、農業委員会の判断でも元に戻す、そういうことも役場でも耕作放棄地でかまってないで、そういうところを超法規的に原野とか山林とかに戻すような、超法規的なような判断も必要になってくると思います。 それと、戦後三つの改革が行われたんですね。
やはりそういった1反歩8万円もの高額な補助を出すということは、将来を見据えて、なるべく田んぼとしてとっておけるような条件のいいところは田んぼとしてとっておいて、食料難になったときに、すぐにまた田んぼとして復活できるというようなことなのかなという気がいたしますので、ぜひそういった方面のご検討もしていただきたいと。
戦争に破れた日本は深刻な食料難にみまわれていました。穀物すら十分に供給できない状態で,肉や卵を生産する余裕は皆無でした。国民に動物性たんぱく質を供給するには漁業以外の選択肢がなかったのです。日本は国策として漁業を推進してまいりました。日本人が今のような日常的に魚を食べるようになったのは,戦後70年程度の現象です。伝統文化というよりは,戦後の魚食ブームと言ったほうが適切かもしれません。
戦争に破れた日本は深刻な食料難にみまわれていました。穀物すら十分に供給できない状態で,肉や卵を生産する余裕は皆無でした。国民に動物性たんぱく質を供給するには漁業以外の選択肢がなかったのです。日本は国策として漁業を推進してまいりました。日本人が今のような日常的に魚を食べるようになったのは,戦後70年程度の現象です。伝統文化というよりは,戦後の魚食ブームと言ったほうが適切かもしれません。
日本の国は昔から瑞穂の国と言われ、神代の時代から米は一番栄養があるわけで、三度の食事は米を食べて生活をされていますが、大東亜戦争時代は米がなくて、国民は食料難で苦労されたことを私は覚えております。
その前は米が不足して大変食料難の時代があったわけですが、この半世紀に8兆円もの金が使われているというようなことが言われております。今の稲作農家の農業所得は平均ですと全国で62万円というような大変少ない金額で推移しているということであります。
まず,食料自給力の維持向上についての基本的な考え方として,食料安全保障,いわゆるいざ食料難というときの農地,担い手,技術の確保をもとに,国内生産力を保ち,高めるための施策として,水田フル活用が示されておりますが,本市として,今後どのように進めていくのか,まずお伺いをいたします。
食の安全・安心、そして食料の確保という質問なんですけれども、私たちのちょっと先輩の方々、あるいは私の親の世代というのは、ついこの前まで食料難で食べ物に事欠いた時代であったろうと、このように思います。私が生まれたころには、かなり改善してきておりました。そういったことで、ついこの前までは日本人は食べることに事欠いた時代を長いこと過ごしてきたんですね。
戦前にはいたそうでありますが、戦時中の食料難で動物に食べさせる食料がなくなったということで、全ての動物を処分してしまったために、戦後、象がいなかったところであります。当時の日本の子供たちが、ぜひ象を見たいという思いを募らせました。それを聞いた当時のネール首相が、インディラというインドの象を1頭、上野動物園に寄贈していただきました。それから日本の子供たちは象を見ることができたそうであります。
戦争に敗れた日本は深刻な食料難に見舞われてしまいました。穀物すら十分に供給できない状態で,肉や卵を生産する余裕は皆無でした。国民に動物性たんぱく質を供給するには,漁業以外の選択肢がなかった時代であります。日本は,国策として漁業を推進して,国民に動物性たんぱく質を供給したのです。それは紛れもなく漁業者の努力であります。日本人が今日のように日常的に魚を食べるようになったのは戦後の現象です。
戦争に敗れた日本は深刻な食料難に見舞われてしまいました。穀物すら十分に供給できない状態で,肉や卵を生産する余裕は皆無でした。国民に動物性たんぱく質を供給するには,漁業以外の選択肢がなかった時代であります。日本は,国策として漁業を推進して,国民に動物性たんぱく質を供給したのです。それは紛れもなく漁業者の努力であります。日本人が今日のように日常的に魚を食べるようになったのは戦後の現象です。
学校給食会が設立されたのは,戦後の食料難が背景にありましたが,当時とは異なり,現代は食べ物が豊かで食料事情も様変わりしております。おのずと学校給食に求められる役割も,食材の物量確保から食材の質や安全を第一にした調達へと変わってきております。また,給食費の問題からも,学校給食会として保護者の負担軽減を考慮した運営の見直しを図る必要があると指摘する声もあるようでございます。
利根左岸については,昭和32年ころだと思うんですが,食料難という……,要するに終戦後の食料解決のために利根左岸も水田化しようということで立ち上げたのが一番の発端です。というのは,皆さんご案内のとおり田中遊水池が対岸にありますけれども,あそこは同じような状態だったんだけれども,水田化されて今きれいな田んぼになっています。
◆13番(村上孝議員) 今までずっとお話、答弁されたように戦後の食料難、経済成長でのいわゆる減反政策、もう米は要らないんだという、そんなにつくってはいかんという、そういう問題と生物多様性の問題など、いつの時代になっても、百姓、農民は浮かばれない。国、都道府県、市町村、いわゆる行政、それと国民は今こそ真剣に考え、取り組んでいかなければならない時期だと思います。
そして戦後は、食料難を背景に、都市部で、アメリカから提供を受けた脱脂粉乳や小麦粉、いわゆるパンによる学校給食が始まり、全国的な国庫補助による学校給食へと広がりました。その後、脱脂粉乳が牛乳にかわり、米飯に比重が移るなどして今の姿になっております。 学校給食は、学校給食法に基づいて実施されておりますが、この学校給食法は、平成20年6月に、制定以来初めての改正が行われています。
我が国の水産業は戦後の食料難を支え、魚を中心とした魚食生活という魚食文化が世界一の長寿国をつくる上で大きなかかわりを持ってきたと言われております。また、茨城県は平成18年の海面漁業生産量において北海道、宮城県に次ぐ水産県でもあり、那珂湊港はその一翼を担っております。豊かな自然、漁業を生かした伝統食、文化等、貴重な地域の資源を絶やさないことが我々世代の使命ではないでしょうか。
我が国の水産業は戦後の食料難を支え、魚を中心とした魚食生活という魚食文化が世界一の長寿国をつくる上で大きなかかわりを持ってきたと言われております。また、茨城県は平成18年の海面漁業生産量において北海道、宮城県に次ぐ水産県でもあり、那珂湊港はその一翼を担っております。豊かな自然、漁業を生かした伝統食、文化等、貴重な地域の資源を絶やさないことが我々世代の使命ではないでしょうか。
そのことは,今年上半期で1億5,000万人増の飢餓人口予測があり,世界中で約10億人もの食料難にあえいでいる人々がいる事実は避けて通れない問題であると考えます。